その他のに人形など

甲冑 戦の道具から物へ

 端午の節句の飾りとして、武器や武具を飾ることは、もともとは武家が行っていた風習でした。江戸の町人は、武家屋敷の前に飾られた勇壮な節句の飾りにあこがれ、これをまねて木や紙で作った武器や武具を飾るようになりました。それらは、やがて屋内に飾られるようになり、次第に精巧なものが作られるようになりました。

 江戸時代の庶民の間では実物を正確に模したものよりも、勇ましい雰囲気の、見て美しいものが喜ばれました。こうした節句甲冑は、庶民だけでなく、やがて逆に武家にまで受入れられ、「戦の道具」というイメージから離れた、「節句祝いの飾り」として定着していきました。

 現代の五月飾りの甲冑には、金工・漆工・組紐・染色・皮革加工などさまざまな技法が駆使されています。これらの技法を50あまりにおよぶ工程で積み重ね、華麗な甲冑が作り出されるのです。



兜 五月人形を産み出した兜

 江戸時代、節句飾りが流行り出したばかりのころは、兜などの飾り物は、家の前に飾られていました。兜は、武家にとって単に戦の中で頭を守るだけではなく、その存在をアピールする武具でした。そのため、昔から趣向を凝らしたものが沢山作られてきました。武家屋敷の前に飾られた兜は、庶民の視線を集め、あこがれを抱かせるに十分な程華やかに映ったことでしょう。武家の節句飾りにあこがれた庶民たちは、紙など身近な素材で兜を作り、節句に飾るようになりました。

 当初、兜の頂きには、勇ましい姿をした人形がのせられていました。これがやがて独立して飾られるようになり、現在の五月人形になったと言われています。

 節句飾りは、時代が下ると屋外から屋内に移っていきました。それに伴い、小さいながらより豪華で手の込んだものが作られるようになっていきました。

 現代の兜には、大きく分けて「京兜」「江戸兜」の2系統があります。どちらも本物の甲冑同様、金工・漆工・組紐・染色・皮革加工などさまざまな技法が駆使され、美しさを競っています。



破魔弓

 初正月を迎える男の子に破魔弓を贈る習慣は、江戸時代に始り現代まで受け継がれています。破魔弓には、さまざまな邪気から身を守る力があると昔から信じられてきました。そのため、初正月の祝い以外にも、新築の家の上棟式に供えたり、正月の破魔矢を飾ったりする風習が今も広く行われています。上棟式の破魔弓は、家屋の守護神に供えられるもので、これまでの工事が無事に進んだ感謝の気持ちや、竣工に至るまでの加護の祈願、禍いなく幸多いことを祈る気持ちが込められています。

 初正月の祝いに破魔弓を飾る場合は、一般に弓・矢・うつぼ(矢を入れるもの)を一組とした揃いを飾ります。また、正月の破魔矢のように、矢のみを飾る場合もあります。江戸時代に縁起物の贈答品として定着したことで、破魔弓には次第に工芸的な美しさが求められ、それを作る職人たちの技も高められていきました。



押絵羽子板

 羽子板は、贈物や祝い品、また子どもたちの遊び道具として、昔も今も、正月には欠かせないもののひとつです。初めは京都で作られていましたが、やがて江戸でも作られるようになりました。京都で作られた羽子板の代表的なものには、宮中の正月の左義長(どんど焼き)の風景を、極彩色の絵や金銀をちりばめた蒔絵で表現した華やかなものがあり、これらは「京羽子板」あるいは「左義長羽子板(さぎちょうはごいた)」と呼ばれました。

 一方、江戸を代表する羽子板は、江戸時代の後期に登場した「押絵羽子板」でした。押絵とは、物の形に切った厚紙に、裂(きれ)を着せてくるんだものを組み合わせて、浮彫のような効果をもたせる手工芸のことです。厚紙と裂の間には綿を入れるため、出来上がった絵柄には立体感があります。

 押絵羽子板の題材には、歌舞伎役者や美人の姿が取り上げられることが多く、歌舞伎の隆盛と共に押絵羽子板も大変な人気になりました。その流行は江戸だけに留まらず、京阪地方をはじめ全国に拡がっていきました。現在、押絵羽子板は観賞用としてのみならず、初正月の女児への贈物として広く用いられています。